『新撰組 永倉新八』1

 見てのとおり本のタイトルです。永倉新八(明治後は杉村義衛)の十三回忌の際、彼の息子である杉村義太郎がまとめたもので、非売品です。それがなぜか横浜の図書館に寄贈されていました。私としては明治後横浜市議をしていた近藤芳助(川村三郎)と関係があるのかとも思いましたが、寄贈したのは杉村義太郎となっているしで(右図)よく分かりません。新選組関連の史料としては『島田魁日記』と並び最重要の一つとされるものだそうです。この本からしか分からないエピソードも多く、子母沢寛が小説を書く際、多くの部分を参考にしたとか。横浜の図書館では禁帯出となっていて、中央図書館の5階で、書庫から出してもらい、その場でなら読むことができました(図書館のカードは必要ですが)。読む時間もあまりなかったので必死にコピーをとってきました。

 現在、新人物往来社から出版されている『新撰組顛末記』はこれを新字体、、新仮名使いに改めたもののようです。原書は昭和の初期に出たものなので、字体が古く、横書きは右から左に書いてあるなど、やはり少し少し読みにくいです。その代わり『新撰組顛末記』には載っていない口絵がなかなか面白いです。

 なぜ「新選組」ではなく「新撰組」かという説明は杉村氏の書いた、本の後書に当たる部分に書かれています。意味からいうと、「撰」ではなく「選」だが、永倉新八の遺稿を見るとどれも「撰」の字を使っているので「新撰組」とした、ということのようです。字については、「永倉」の「永」という字についても触れられています。永倉新八の生家は「長倉」で、子孫も「長倉」姓だそうです。杉村義太郎詩は氏は、これを、「松前藩脱藩の際、万一累を生家に及ぼすようなことがあってはならぬという深甚なる考慮の結果わざと」永倉にかえたと考察しています。

 とってきた口絵等のコピーを載せておきます。いくつかについては大きい画像も用意しました。大きい画像からはブラウザの戻るボタンで戻ってください。なお、題の赤い文字のところは写真に添えてある、見えなくなってしまった字です。(ただし原書は縦書きだったり右から左に書いてあったりします)旧字体と新字体が混ざっているのはご愛嬌ということで許してください(汗)。

 

中表紙
字は松本順(良順)の息子である松本本松氏が書いたそうです。
表紙は張り替えられていて、古いものはついていませんでした。 
真中に押してあるのは横浜市図書館の印で、上の数字も図書館のものです。

 

口絵・貴族院議長 公爵 徳川家達閣下
「世が世ならば十六代将軍たる徳川家達(いえさと)公」にこの本のために書いてもらったそうです。
あんまりうまいとは思えないなあ(笑)
後書に当たる部分に、この字を書いてもらった経緯が書いてあります。
そこに、これを書いてもらう際渡した史料を包んでいたぼろくさい風呂敷が十六代将軍のお手つけになって喜んだなんて書いてあるのですが、そのあたりは今とは違う価値観で面白いなと思いました。

 

口絵・子爵 松平保男閣下
「旧会津藩主松平保男(もりお)子」にこの本のために書いてもらったそうです。
「名流の序文題字をえて巻頭を飾るべく連日奔走した」そうで、親孝行な息子だなあなんて思ったり。

 

口絵・貴族院副議長 侯爵 蜂須賀正昭閣下
同じく、この本のために書いてもらったそうです。
この人のおかげで徳川家達に字を書いてもらえたそうな。

 

口絵・新撰組永倉新八――後の杉村義衛翁肖像(編者の亡父)
往年の永倉新八翁の写真です。
若い頃の写真とはずいぶん雰囲気が違いますね。

 

口絵・杉村義衛婦人米子刀自肖像(編者の亡母)
永倉新八の奥さんです(関係ないけどこういう言い方好きじゃないなあ…)
永倉新八とはあまり仲は良くなかったのか、結婚生活のほとんどを別居してすごしたそうです。

 

口絵・松前藩典医杉村松柏翁肖像(編者の祖父)
つまり永倉新八の義父ということです。

 

口絵・幕府典医頭にして明治維新後軍医総監たりし松本順男の揮毫(上)
松本順男肖像(下)男は杉村義衛の同志にして編者の恩師である
幕府の奥御医師で新選組ともふか〜いかかわりのある松本良順です。
明治後は松本順と改名しました。
新選組の墓や慰霊碑を建てる上ではこの人の金銭的支援はかなり大きかったようです。

 

口絵・徳川幕府より松平肥後の守(会津侯)に賜れる感状(永倉新八の遺愛品)
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口絵・新選組の軍中法度と感状(一)は軍中法度書、(二)より(六)までいずれも新撰組および永倉新八に送られた感状
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口絵・永倉新八の日記遺稿と同志連名控(一)日記遺稿(二)同志連名控(三)東京毎日新聞『近藤勇』の切抜(四)小樽新聞『永倉新八』即ち本書内容第一回の切抜(五)中央新聞『新撰組』の切抜(別項記事参照)
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口絵・殉節両雄之碑 明治九年松平容保卿の題額に松本順先生の選文にて近藤勇、土方歳三両雄の出身地東京都府下南多摩郡高幡山金剛寺境内にたてらる(別項記事参照)
このサイトの「副長・土方歳三の墓」の新選組両雄の碑と同じものです。(あちらは高幡不動のパンフレットに載っている名前に準じて新選組両雄の碑としました)。
原文は小島資料館にあります。
上の「別項記事」にあたるところに、この碑についての話が載っています。
杉村氏がこの写真を見たときには、これがどこにあるものか分からなかったそうです。
高幡不動はとても大きくて、多摩のあたりに住んでいる人ならきっと知っていたのでしょうが、北海道にいた杉村氏には分からなかったのかもしれませんね。
写真の横に書いてある字は永倉新八が書いたものだそうで、これも後ろのほうに全文が載っています。

 

口絵・殉節両雄之碑全景(昭和二年六月十四日寫)
上のと同じで、こちらは碑の場所が分かったあとに撮ったもののようです。

 

口絵・永倉新八が斬られた板橋に建設した近藤、土方其他同志の墓石全景(上)同墓石裏面(下)(別項記事参照)
(右)新八の生家當主長倉正氏、(左)編者杉村義太郎(昭和二年二月二十日寫
詳しくは「板橋新選組史跡を歩く」「新選組慰霊碑」をご覧下さい。
大きい画像はこちらです。

 

奥付
なんかこんな所から本の古さを感じます。

 

 

文責:望海

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