土方歳三の墓

石田寺にある土方歳三のお墓です。
右端が彼自身のお墓です。
お盆の後だったためか、お花や写真が供えてありました。 

こちらも高幡不動です。
周りに立っているのは町興しの旗みたいです…。
ちなみに町興し用ポスターの土方さんはかなり漫画チックです(笑)

高幡不動の五輪塔です。
この写真の場所の近くに土方歳三像と新選組両雄の碑があります。
像はかなり大きいです。

ポストカードです。
高幡不動の前のお土産屋さんで買いました。
かっこいい…(笑)

●看板の写真へ…

 こちらも上の写真のほかにお墓の横にあった看板があります。かなり重いです。こちらも戻るときはブラウザの戻るボタンで戻ってください。いちおう以下のようなことが書いてあります。

土方歳三

 土方歳三義豊は、天保六年(一八三五年)、土方義諄の四男として生まれた。青年時代は家業(農業、薬の製造・販売)を手伝いながら近藤周助について天然理心流を学び、近藤勇・沖田総司らと知り合った。
 文久三年(一八六三年)、幕府は将軍家茂の上洛の際、京都における警護の浪士を募集し、近藤・土方らも浪士組に加わり、新選組を結成した。近藤が局長、土方が副長となり、京都の治安維持に努めた。
 その後、慶応三年(一八六七年)一〇月の大政奉還により、慶応四年(一八六八年)一月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、土方らも参戦したが敗れた。以後勝沼、宇都宮・会津と転戦し、仙台で榎本武揚率いる幕府艦隊に合流した。そして、北海道へ渡り箱館政府設立に参加し、土方は陸軍奉行並に選任された。
 明治二年(一八六九年)、官軍の反撃が始まった。土方は弁天砲台に孤立した味方を救出するために箱館市内に突入したが、午前一〇時頃腹部に銃弾を受けて戦死した。

五月一一日没、三五歳。法号 歳進院殿誠山義豊大居士

日野市教育委員会  

 石田寺にある土方歳三の墓と高幡不動(高幡不動尊・高幡山金剛寺)に行ってきました。近藤勇の墓に行ったのと同じ日に行ったので、あまり時間がなく高幡不動のほうはじっくり見られませんでした。住所は石田寺が東京都日野市石田145、高幡不動が東京都日野市高幡733です。

 近藤勇の墓と同様かそれ以上に、周りには土方という苗字の家が多かったです。お墓は最近親族の方が立て直されたそうです。

 高幡不動にはかなり大きい土方歳三像があります。門を入ってすぐのところでかなり目立ちます。完成はたしか1995年、まだ新しいものです。あまり写真には似ていない気もします。新選組両雄の碑のほうは、会津藩主松平容保が題字を、幕府の奥御医師松本良順(明治以後は松本順)が本文を書いて、明治21年に完成したそうです。当時は維新からそれほどたっておらず、新選組は反逆者ですからこれにしろ板橋の慰霊碑にしろ、立てるにはかなりの苦労があったようです。

 

訪問日:2003年8月

文責:望海

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