『新撰組 永倉新八』2

 本の中から私が興味深いと思った部分についてまとめてみました。途中から抜き出す長さが異様に長くなっているのはご愛嬌と言うことで(汗)。すぐ下から、それぞれの項目へ直接飛べるようになっています。

局中法度 / 隊服 / 芹沢鴨の暗殺 / 「誠」の旗 / 長州の間者 / 給料 / 池田屋事件 / 建白書 / 西郷吉之助 / 伊東甲子太郎の加盟 / 山南敬助の脱走 / 油小路 / 分離 / 靖兵隊 / その後の永倉新八

 

▼局中法度

それは第一士道をそむくこと、第二局を脱すること、第三かってに金策をいたすこと、第四かってに訴訟をとりあつかうこと、この四箇条をそむくときは切腹をもうしつくること、またこの宣告は同志の面前でもうしわたすというのであった。

 『新撰組永倉新八』にはこのような記述があります。局中法度はこの記述を元に子母沢寛が創作したものとの説が有力なようです。この「憲法」が出来た時期は最初に京都大坂で隊士を募集したときとなっています。

 

▼隊服

文久三年の春はもの騒がしく暮れてはやくも卯月になった。一日新撰組の芹沢が新見、近藤の両人に向かって、「もはや端午も近づくというのに同志はなお綿入れを着している。―中略―三人の知恵はトド大阪随一の富豪鴻池へおもむき入用の金子を借用してととのえようということになった。―中略―まもなく松原通り大丸呉服店へ麻の羽織、紋付の単衣、小倉の袴などをことごとく新調におよび一同へ手わたして衣更することができた。―中略―大坂の鴻池から金子二百両を借りいれて服装をかえた新撰組の浪士、なかにも羽織だけは公向に着用するというので、浅葱地の袖へ忠臣蔵の義士が討ち入りに着用した装束みたようにだんだら染めを染め抜いた。

 この記述については永倉新八の記憶違い(?)で、実際に借金をしたのは鴻池ではなく平野屋でのことだと分かっているそうです。鴻池に残っているのは7月の日付の借金証文ですが4月21日にはだんだら羽織の目撃談があるとか。
 上記のように羽織は忠臣蔵の討ち入りの際の衣装を真似て作ったものです。今風に言うとコスプレ……。昔も今もあまり変わらないですね(笑)コスプレ衣装だから派手で、隊士にはあまり人気がなかったようで、わりとすぐに着られなくなってしまったようです。もったいない……

 

▼芹沢鴨の暗殺

ときは文久三年九月十八日夜、新撰組の大会議が島原角屋で開かれ、議が終って大宴会がおこなわれた。―中略―近藤は今宵こそ芹沢を成敗してくれんと土方、沖田、藤堂、御倉伊勢武の四人へ旨をふくめその爛酔をまって暗殺しようと時をまった。―中略―みずから招いた災いとはいえ同志の手にかかって横死をとげた芹沢鴨は惜しみてもあまりある有為の人物であった。―中略―それほどの才幹で国家有事の秋にむざむざと横死したことは彼自身のみでない、国家的損害であるとは当時心あるものの一致するところであった。

 芹沢鴨の暗殺を誰が行ったのかというのには、諸説あるようです。近藤勇、土方歳三、沖田総司に関してはどこにもたいてい出てくるのですが、残りは山南敬助、原田左之助、井上源三郎などまちまちです。実際にどうだったかは、暗殺という形なこともあり、よく分からないようです。まあ永倉新八がかかわっていなかったことだけは確かです。暗殺の後、近藤勇達はこれを長州人の仕業としているので、ここで永倉新八が御倉伊勢武を上げているのはその影響かもしれません(御倉伊勢武は以下にあるように長州の間者とされています)。
 また、小説などでは散々な書かれ方をしている芹沢鴨ですが、ここでは「国家の損害」とまで書かれています。確かに大した人物ではあったのでしょうが、永倉新八が芹沢鴨等と同様に、神道無念流の使い手であったことも、あるいはこの言い様と関係があるのではないかという気もします。

 

▼「誠」の旗

芹沢はただちに隊員を集めて八十名を二列とし、先頭には六尺四面の大旗――旗は赤地に白く『誠』の一字を染め抜いたもので、これを押したててどうどうと御所をさして乗り込んだ。

 ←こんな感じでしょうか?旗は羽織と違って隊士にも人気があり、長く使われたようです。目撃談もあるようですが、旗に関する話の時期としてはこれが一番早いものになるようです。

 

▼長州の間者

長州の志士御倉、荒木田、越後、松井の四名が首尾よく新撰組にもぐりこみ、近藤以下の邪魔者を刺そうとつけねらうと、新撰組のほうでもこやつうろんなやつとゆだんせず、なかにも隊長の内命をうけた永倉新八その他の密偵はかれら四名の挙動を監視してすこしあやしいとみれば委細を隊長に報告し、「けっしてごゆだんめさるな」と注意する。だんだん日かずがたって九月二十五日、右の四名が公卿大原三位邸へいくといってでかけた。そこで永倉も中村金吾をともなって同行することとなりついていくと、大原邸へはおもむかずとちゅうの池亀という料理屋へあがって酒を飲みはじめた。永倉もい一しょに飲んでいるうちに志士らはひとりへりふたりへってついにみんなどこかへ消えてしまう。不審に思って永倉が便所へいくふりして下座敷へおりていくと、ある一室に八人ばかりの見知らぬ侍がおり、まえの四人もまじってなにごとかひそひそと語りあっている。さてはとうなずいて永倉は足音をしのばせてもとの座敷へたち帰り、待つまほどなく四人のものはなにくわぬ顔して座敷へもどってきた。そしてしきりに酒をすすめる。「永倉氏、マ・マ一献まいろう、中村氏は隊一帰られてはどうじゃナ」と心ありげにいうが、永倉は笑いにまぎらしている。とかくするうちに一座はこれから舐園へくりこもうというので、一力に登楼し陽気にさわぐうち、荒木田左馬之助が、「さアさア諸君、大小をはずして楼主へあずけよう」と言いだした。永倉は不審に思ったがなにほどのことやあろうと言うままになり腰のものをてわたしていよいよお退けとなり、永倉は二階、中村は下座敷へ別れる。なかにも永倉の座敷は一方にだけ出入口があっていかにもふつごうな部屋、ことには無手であるからもしきゃつらが斬りこんできたら手許にとびこんで、あいての剣をうばつて戦うよりほかにみちがないと思いさだめ、わざと酔ったふりして寝ている。ところがかれこれ丑満刻と思うころ、下座敷に寝たと思っていた中村がそっとあがってきて、「永倉氏、どうもがてんがいかぬ、ごゆだんなされぬよう」と注意していく。ほどなく巡邏にでた沖田・井上、原田、藤堂、島田などの同志が十人ばかり心配して一力に立ちより、「永倉ぶじかの、あの四人のものはかならず隊につれもどってくれ」といつていってしまう。こんなうちに中村がふたたびやってきて、「四人の連中は池亀で見た七、八人の侍といっしょになって尊公を暗殺しようと相談している」とつげた。その相談というのはなんでも一力ヘめいわくをかけぬよう、外で殺ろうというのらしい。永倉も決心していつでもあいてになろうと腹をきめ、夜の明けるのを待つていると、四名のものがドヤドヤとはいってきて、「永倉氏もう夜が明けた、サァサァ帰ろう」とうながしたてる。やがて一同外へでて気をくばって歩くうち、四名の志士はときどき斬りかかろうとするが、なにぶんにも人通りが多いのでトウトウ手をくだせず壬生村へきてしまった。

 長くなりすぎてしまいました(汗)。一話丸ごと引っ張ってきてあります。隣の座敷で密談するなんて間抜けすぎるからあまり信用できないなんて何かに書いてあったんですが、どうなんでしょう?まあ永倉新八が活躍したお話として読むにはとても面白いです。ちなみにこのあと御倉伊勢武と荒木田左馬之助は永倉新八と斎藤一に殺され、越後三郎と松井竜次郎は沖田総司と藤堂平助にねらわれるものの逃げおおせています。

 

 

▼給料

すなわち組の隊長は大御番頭取とよばれ手当てが三十両、以下の同志もそれぞれ名称と手当てを付され平組員でさえ大御番組なみとよばれ月の手当て十両ずつ給されることとなった。

 こんな感じで給料を貰うことになったと書いてあるのですが、これって貧しい家庭なら1年が過ごせるくらいの金額だそうです。新選組の隊士はこれをほとんど酒と女遊びにつぎ込むわけです(汗)

 

▼池田屋事件

夕刻にまず町会所へぜんぶつめて古高の自白どおり長州人を狩りたてようと手をわけてかたっぱしから調べていく。祇園通りから三条通りとすすんでいったがひとりも見あたらない。ところがふと三条小橋のあたりの池田屋惣兵義衛方をのぞくと、はたして二十四名の長州志士がより合ってなにごとか凝議のさいちゅうであることがわかった。―中略―こちらは近藤勇、隊員を二手にわかち、池田屋の表口と裏口をかためさせ、屋内へは隊長近藤がさきに立って沖田、永倉、藤堂の三人をしたがえてツカツカとすすむ。―中略―そのとき藤堂はと見返れば、ふいに物陰からおどりだした敵に眉間を割られ流れでる血が目にはいってひじょうになんぎしているようす。それとみて永倉は撃剣の加勢でもする気で横合いから敵に、―中略―ふと自分の左の手がベトベトするに気がつき、よく見ると親指の付け根の肉を切りとられていたのであった。―中略―そうこうするうちに沖田が大奮闘のさいちゅうに持病の肺患が再発してうち倒れたので、眉間に負傷した藤堂とともに表へだしてしまう。

 ずいぶん削ったのですがそれでもまた長くなってしまいました。有名な池田屋事件です。新選組の歴史の中でも最も華やかなときといえるのではないでしょうか。よく、池田屋の中に密偵を忍び込ませて、という話も描かれますが、ここでは地道に片っ端から調べていったと書かれています。当日、池田屋に踏み込んだ近藤隊が少人数だったことを考えても、こっちのほうが信憑性が高いみたいです。ここには池田屋に集まっていたのは長州志士とされていますが、実際には他藩の志士も相当数いたようです。上に書いたように、最初に斬り込んだのはわずかに4人(他に近藤勇の息子である近藤周平も最初に斬り込んで5人という説もあります)。よくこれだけで斬り込んだものだと感心します。上にあるように、このとき藤堂平助は眉間に大怪我を、永倉新八は左手に大怪我をしています。藤堂平助の怪我は、なくなった2人の隊士を除くと、もっとも重傷だったようです。沖田総司が肺患で倒れたという記述もちゃんとあります。ただし吐血したかどうかは分かりません。ちなみにこの本は永倉新八を主人公のようにして描かれているため、かなり永倉さんが活躍しています。なお、古高俊太郎やこのとき捕縛された志士たちは、この後禁門の変の際、「いまだ裁判さえ確定しないのに」処刑されたそうです。

 

▼建白書

なかにも近藤勇は蛮骨をもって鳴らしただけおうおうにしてわがままの挙動がある。―中略―かくと着眼した副長助勤の永倉新八、斎藤一、原田左之助などがしきりになげき、もしこのままにして新撰組瓦解せんには邦家の損失であると観念し、調役の尾関政一郎、島田魁、葛山武八郎らとも語らい、六名とも脱退のかくごをもって会津侯に建白書をだした。

 永倉新八、原田左之助、斎藤一と結成当時のメンバーです。近藤派のなかでも軋みが出始めていたことが分かります。この後に武田観柳斎が近藤勇をおだてるから近藤勇が増長したというように書かれています。ここで建白書を出したのが彼らでなかったら、暗殺されていたかもしれません。

 

▼西郷吉之助

そこへ、これも将軍上洛をすすめる心底でおなじく三日で京都から出府したという薩摩の西郷吉之助が来たり会した。「オオ近藤氏でござったか。はからずも御面会を得て祝着にぞんずる。拙者は大目付大久保肥前守殿に面会いたして大樹公のご上洛をおすすめする考えでござる」「それはなにより好都合のしだい。しからばわれわれは御老中の松前伊豆守を動かすでござろう」と物語りまもなく袂を別った。

 西郷吉之助とはのちの西郷隆盛のことです。これは後の歴史を知っているから面白く感じられるのでしょうね。どちらもこのときは(一応)幕府方、のちに西郷は新政府方、近藤は幕府方として戦いますが、最期はどちらも逆賊として死んでいる。本当に不思議な気がします。この本にも「まことにおもしろき対照」とあります。

 

▼伊東甲子太郎の加盟

藤堂は激越せる調子で、「われら前年かの近藤勇と同盟をむすび京都に滞在いたしてなにがな勤皇の微力をいたさんとぞんじておったが、だんだんと近藤の態度を勘考するとかれはいたずらに幕府の爪牙となって奔走し、さいしょ声明した勤皇のことどもはいつ目的をたっすることができるかわかりもうさぬ。げんに先般も同志のものが近藤の小成にやすんずるのを憤慨して脱退せるものもすくなくない状態で、われらもないない匙を投げているのでござる。よってこのたびかれが出府をさいわい、かれをば暗殺してへいそ勤王のこころざしあつき貴殿を隊長にいただき、新撰組を純粋の勤王党にあらためたいとぞんじ、―中略―甲子太郎はことのいがいにおどろきながらもまたよろこんで平助の説に同意した。そして近藤とはとにかく同盟してかれの同志となり、京都についてからわれらの秘謀を実行しようということに決定し密約をとげた。

 という風に書かれていますが、実際の所は永倉さんが見たわけではないですから分かりません。彼がそうだとおもったということなのでしょう。永倉新八も伊東甲子太郎とともに近藤勇に反抗(?)して謹慎処分を食らったりしていますし、もしかしたらそんな話を藤堂平助から直接聞いたかもしれない、なんて考えは、もう私の空想というのを通り越して、妄想といっていいくらいありえないことですが、そんなことも考えてみたりしています。とこんな話は置いておいて、伊東甲子太郎についてはかなりの勤皇論者ですし、最初から全て合意の上で新選組に加盟したということはありえないでしょう。藤堂平助は試衛館時代からの同志ですが、尊皇攘夷が第一だと考えていたのではないかと思っています。だからだんだん尊皇攘夷よりも志士を取り締まることに夢中になっていった(というのも少し変な表現ですが)新選組に疑問を抱いていたのかなと。

 

▼山南敬助の脱走

こうして思想のあい投合する両人がそののちしばしば談論をかさぬると聞いて隊長近藤はさらに猜疑の眼をもってかれらをむかえるので山南はついに意を決し、脱走をはかって江州の大津まで落ちのびた。―中略―沖田総司をやって追跡せしめ難なく山南を召し捕った。―中略―介錯は沖田総司にたのみ言葉をかけるまで刀をおろすなという。

 山南敬助の脱走を記録している史料というのは『新撰組永倉新八』だけです。これよりも以前に永倉新八によって書かれた『浪士文久報国記事』にはその記述は全くありません(完全無視なんです……)。ここでは伊東甲子太郎と意気投合した山南敬助が脱走したことになっています。小説を読むとまあいろいろな理由が描かれていますが、これも実際のところはよくわかりません。『浪士文久報国記事』に記述がないことから、この山南敬助の脱走自体がなかったという人もいるくらいです。と、とりあえず「水の北の南や春の月」っと(ごまかし)

 

▼油小路

四方をかためられて逃げ道をたたれた藤堂平助はやにわに永倉新八のほうへひきかえしてきた。しかし永倉はかねて近藤から、「藤堂は伊東と同盟はしているがまだ若い有為の材であるからできるならば助けておきたい」といわれていたので、それとみて藤堂をやりすごした。情けある旧友のこのふるまいに藤堂はツと身を七条の方へさけたので、永倉はなおもその行方をみおくっているとこのとき同志の三浦常三郎が、イキナリ藤堂を追っかけてそのうしろからサッと斬りつけた。

 これを写していて、また泣きそうになってしまいました。自分の目の前で、自分の仲間だった人が自分の仲間に殺されていくというのはどんな気分だったのでしょうか。新選組の小説を読んでいても、私が一番辛いのは油小路事件かもしれません。ここでは近藤勇が藤堂平助を助けろと言ったとされています。

 

▼分離

勇はそれを聞くよりふつぜん色をなし、「拙者はさようなわたくしの決議には加盟いたさぬ。ただし拙者の家臣となって働くというならば同意もいたそう」とキッパリ断った。―中略―永倉も「二君につかえざるが武士の本懐でござる。これまで同盟こそすれ、いまだおてまえの家来にはあいもうさぬ」と激しながら、だんだんこれまでの交誼の礼を述べ、原田、矢田などとともに立ち去った。

 近藤勇が家来となるならといったことに怒って新選組を脱退というかこの場合も分離と言ってもいいのでしょうが、永倉新八、原田左之助という、試衛館時代からの同志であった2人が近藤勇、土方歳三らと袂を別っています。ほんとうに近藤勇がこんなことをいったのだとすれば、彼らは人は変わるものだと実感したに違いありません。私が思うに、農民出身で武士となることに並々ならぬこだわりをもった近藤、土方らに、もともと武士であった永倉、原田ら(とくに永倉新八はそれなりに身分のある家の出です)はついて行けないと言うような気持ちになったのではないでしょうか。

 

▼靖兵隊

「このうえ貴殿と同盟して徳川の声誉回復につとめようとぞんじ、拙者と死生をちかった原田、矢田の両所と同道してまかりこしたしだいでござる」とむすんだ。すると芳賀はこれにだいさんせいで、そくざに一隊を組織することに決定しただちに趣意書をしたためて発表した。―中略―そこでこれを靖兵隊と名づけ、隊長は芳賀宜道、副長永倉新八、原田左之助、士官取締に矢田賢之助をえらび歩兵取締に林、前野、中条、松本の四名を指定する。―中略―山崎宿で副長の原田は妻子の愛着にひかされ辞をもうけて江戸へひきかえしたが、官軍は江戸をかこんでふたたび靖兵隊に帰ることができず、神保伯耆守の募った彰義隊に投じて上野戦争に戦死をとげた。

 永倉新八と原田左之助でどうしてどちらかが隊長をやらなかったんでしょうね。自分達が隊長になりたくて離脱したのではないことを示すためでしょうか?芳賀宜道は以前の名前を市川宇八郎といって永倉新八の旧友です。原田左之助はなぜか靖兵隊を組織した後に江戸に戻り彰義隊とともに上野戦争に参加しています。

 

▼その後の永倉新八

永倉新八こと杉村新八は明治八年五月七日家督を相続して名を義衛とあらため、十五年十月樺戸監獄に剣術師範として聘され、十九年辞職したが同年上京の途次、函館に土方歳三、伊庭八郎の剣友を碧血碑にとむらい、米沢では雲井竜雄の妻女を訪い、上京してからは居を牛込にかまえて撃剣の道場をひらいて聖代の武術を練る道をおしえた。また京阪地方を遊歴するうちはからずも新撰組時代に京都でもうけた娘の磯子にあって親子の対面をする。磯子はこのころ女優となって尾上子亀と名のっていた。小樽に帰ったのは明治三十二年で、その後は長男の義太郎、二女ゆき子の二子につかえられ老の余生をいとやすらかにおくった。死生のあいだをくぐること百余回、おもえば生存するのがふしぎなくらいの身を、大正の聖代まで生きのびて往年の敵も味方もおなじ仏壇に朝な夕なのとむらいの鐘をたたぬ。

 長い……。つい長くしすぎてしまいます(汗)。これで最後です。20世紀を覗いた新選組の元幹部、永倉新八は無事に余生を過ごしたようであります(口調が変だ……)。その中で、新選組の名誉回復に東奔西走したわけです。そして大正四年一月五日、もう一人の生き残り幹部、斎藤一よりも数ヶ月早くその人生の幕を閉じることとなります。

 

文責:望海

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送