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1月5日は永倉新八の命日ということで、板橋までお墓参りに行ってきました。北海道にちゃんとしたお墓があるのですが、板橋にある「新撰組慰霊碑」の傍らに単独で「新選組永倉新八墓」が建っています。このお墓の裏面にはお墓を建てる経緯みたいなものが説明されていて、『新撰組永倉新八』の本についても触れられています。つまり新選組の慰霊碑とは別に、彼が亡くなってずいぶん経ってから建てられたということですね(整備しなおしたんだったかな……?)。ここには永倉新八自身の遺言で遺骨の一部と遺髪が埋められているそうです。永倉さんは維新後新選組の慰霊碑を建てるために奔走していますし(維新直後は新選組というのは「反逆者」なのでとても大変なことだったようです)きっと新選組に対する思いがそれだけ強かったんだろうなんて勝手に考えています。
新選組慰霊碑が板橋に建てられているのは近藤勇が板橋で処刑されたからです。首は処刑後京都へ送られ三条河原で三日間さらされた後、東山に埋められたそうです。この近藤さんのさらし首を伝える絵入りの瓦版が小島資料館にあるのですが、この顔は「犯罪者」を描いたということもあってかなり情けない顔で、近藤勇本人にはあまり似ていないだろうと小島さんがおっしゃっていました。この埋められた首については、後に永倉新八が見つけたという話もあるようです。体については処刑の3日後に近藤勇五郎(近藤勇の甥)が刑場跡から掘り起こし、三鷹の龍源寺に埋葬したというのと、ここの慰霊碑を昭和初期に改修した際(永倉新八のお墓を建てたときでしょうか?)そこから首なしの遺骨が出たので埋葬しなおしたというのと両説あってよく分かりません。どちらの話も本当だとすると、どちらかの遺体は別の人で、その人を近藤勇だといってお参りしていることになってしまうのですが……
慰霊碑の場所はJRの板橋駅東口をでてすぐの所です。住所は北区滝野川7丁目(板橋駅出てすぐのとこなのに板橋区じゃないです)東口を出ると目の前に噴水がある小さな広場(日本語が変……)があって、そこを突っ切って道路を渡るとあります。その広場には近藤勇の墓があることを宣伝する横断幕が……。ちょうど調布の駅前もこんな感じです。でもちょっと待って。ここにはもっと大きい永倉さんのお墓と新選組の慰霊碑が建っているんですが。いくら大河の主役とはいえ近藤勇のことばかり言うのは他の隊士やちゃんと遺骨まで置いている永倉さんに失礼じゃないかなあ。その上仕事のついでに慰霊碑に立ち寄ったって感じのおじさん3人組は「近藤勇の墓が……」とか言って慰霊碑にだけ手を合わせて行っちゃうし。今日は永倉さんの命日だぁ!!……以上独り言です。失礼致しました。
さてさて、少々脱線いたしましたが話の続きを……。せっかく板橋まで来たんだし、ということで、近藤勇が処刑1日前まで幽閉されていたという平尾の脇本陣・豊田家跡に足を伸ばしてみることにしました。板橋駅の辺りを旧中山道が通っています。これを駅から南西に向かって板橋宿商店街を通って15分くらいで観明寺というお寺の前に着きます。ここの前には史跡の案内板があります。で、これにしたがってその一つ先の路地に入ってちょっと行くとマンション(?)の前に「板橋宿平尾町脇本陣跡」の碑があります。向かいのの電信柱をみると住所は(板橋区)板橋3−25となっていました。かなり変な場所にありますが、案内板があるため分かりやすいです。
ここまでくればもののついでと、さらに中山道をたどり、地名の元となった板橋の見物に行くことにしました(どこのおのぼりさんだという声がどこからか……)。「板橋宿平尾町脇本陣跡」からさらに5分ほど、板橋宿本陣跡の碑にたどり着きます。代々飯田家が本陣役を務めたそうですが、今はスーパーの敷地です。さらに5分くらいで地名の元になった板橋につきます。昔は文字通り板橋だったそうですが、今はコンクリート製の橋です。一応板っぽい塗装はしてありますけどね。
あまりいるとは思えませんが、私のようにこの辺りまで歩いて行ってみようと思うならば、板橋産業NET内の 史跡ガイドが地図つきでよくまとまっていて便利です。
訪問日:2004年1月5日
文責:望海
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