永倉新八生誕の地

 永倉新八は天保10年4月11日、あるいは天保10年9月12日、下谷三味線掘の松前藩邸の長屋で生まれました。なぜこんなところであるいはなんて使わなくてはならないかというと、小樽新聞に掲載された回想録(のちに『新撰組永倉新八』としてまとめられたもの)では4月11日となっているのに、戸籍では9月12日となっているからです。ついでに樺戸で剣術を教えていたときの戸籍では弘化2年4月生まれになっていたりします。彼の残した記録では日付に関するものって結構間違っているので、誕生日も戸籍に残っている方が正しい気もしますが(汗)4月11日の誕生記念ということで下谷松前藩邸跡に行ってきました。

 下谷松前藩邸跡について書く前に、永倉新八の出自についてほんの少しだけ触れておきたいと思います。永倉新八は松前藩江戸定府取次役を勤める長倉勘治の次男として、生まれています。長倉家は150石取りで、松前藩でも結構いい家柄のようです。新八はその跡取でしたが剣術修行のために家を飛び出しています。

 さて、この下谷松前藩邸は、当時の住所では江戸下谷三味線掘、現在の住所では東京都台東区小島2−9辺りになるようです。もちろん(?)碑なんてありません。三味線掘については、区設三味線掘市場としてちょっと前まで名前が残っていたようなのですが、今はそれもなくなってしまったようです(全然自信はないですが記念碑はあると聞いたような気がします)。今この住所には、小島小学校が建っています。ここで永倉新八が生まれたと思うと、この小学校で学んでいる小学生が羨ましかったりします(笑)。永倉さんもこの辺りを走り回っていたのでしょうか?

 ここへは、都営大江戸線の新御徒町駅から歩いて2〜3分で行けます。大通りを一本入ったところで、建っているものも小学校なので結構分かりやすいです。大江戸線を使いたくなければ、JRなどなどの通っている御徒町駅や上野駅からでも、15分〜20分もあれば十分歩けます。私は医学所跡(近いうちにアップします……)のほうからここを通って上野にぬけました。医学所跡からは少し遠いですが、それでも迷いながらで30分ほどででたどり着きました。

 永倉新八は家を飛び出す前の18年間と、明治後帰藩を許された後松前に渡るまでの2年間をここで過ごしています。

 

訪問日:2004年3月28日

文責:望海

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