新選組問答集

 ここでは皆さまからご質問を頂きまして、できる範囲でですが私がそれに答えていこうと思います。新選組に関することなら遠慮なさらずなんでもお聞きください。私が知らないことでも(というかそっちのほうが多いと思いますが)できることなら調べてお答えしていこうと思います。未熟者ですので答えられないこともあるとは思いますがそのときはどうぞ笑って許してください。

 ただいま質問の募集は休止しております。申し訳ございません。

 

沖田総司ってどんな顔?

 女性にもてまくりな(笑)沖田総司さんですが、実際はどんな顔だったのでしょう。よく小説では美形ということになっていますが、肖像画といわれるもの(左)を見ると、一瞬「は!?」って思いますよね。私も最初見たときはかなりの衝撃を受けました(笑)。でもこの肖像画、実際は沖田総司にどれほど似ているのか分からないんです。

 この肖像画は、沖田総司の子孫に当たる方をモデルに、作られたそうです。近藤勇や土方歳三の写真なんかと一緒に、沖田総司のイメージとして出てくることが結構あります。ところで以前伊東成郎氏の講演を聞いたときに、そのモデルになった人の写真を見たという話を聞きました。本当にこの肖像画にそっくりな顔だったそうです。世の中にあんな顔の人がいることをはじめて知ったなんて言ってらっしゃいましたが、私は未だにあんな顔の人がいたというのがちょっと信じられなかったりします(決して馬鹿にしているわけではないです)。何にせよ、これは子孫の方をモデルに作られたものなので、多少は似ているかも……くらいなものなんです。

 さて、それでは実際はどんな顔だったのでしょうか。沖田家の口伝によると、沖田総司の人相は、ひょろりとしていて、色は浅黒く、猫背で、ひらめのような顔をしていたそうです。当時の文章として残っているものではありませんから完全に信用は出来ませんが、子孫の口伝ですから、結構当てになるんじゃないでしょうか。この中で顔に関するものは2つ。ひらめのような顔と、浅黒いということ。浅黒いのだから、肖像画はこの点に関しては似ていないということになりますね。ひらめのような顔というのも、私は未だにうまく想像できないのですが、この顔はひらめのような顔には見えませんから、この点も似ていないということになると思います。ただ人相として、いつも笑っていたというのと、感じがよかったというのは記録が残っているみたいです。

 ちなみに、小説などでは沖田総司は月代を剃っていたとなっているものが多いですが、実際どうだったかについても記録が残っていないようです。もしかしたら近藤勇みたいな髪型だったかも?(笑)

 

池田屋に最初に斬りこんだのは4人ってホント?

 実はこれ、4人という説と5人という説があります。まず4人という説の根拠を挙げると、永倉新八の『浪士文久報国記事』には、「表廻リハ厳重ニ固メ夫よりマカリイルモノ人ハ近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、……」となっていて、斬りこんだのが4人だったなっています。

 一方近藤勇の手紙では、「拙僅之人数引連出口々々固免させ打入候者者下拙沖田永倉藤党下拙養子周平」とあり、こちらは近藤周平を加えて、5人としています。

 さてどちらが正しいか。私は4人かな〜と考えています。近藤勇のほうは、故郷に無断で(事後承認というかたちで)とった養子について、故郷の方に認めてもらわなければならないわけですよね。一方永倉新八のほうには近藤周平をメンバーの中にいなかったとしたからといってとくに良くなることもない。というわけで、4人だったというのが実際かなと考えています。ただしこれは私の憶測ですので鵜呑みになさらないで下さい(汗)

 ところで記録が新選組側にしかないため、これを嘘だろうという人もいますが、踏み込まれたときには混乱もしていたでしょうし、多くがここで亡くなったり捕縛され牢に入ったり(もちろん逃げた人もいますが)しているわけで、記録を残すのは難しかったのではないかということを考えると、それだけでこのことを否定することはできないような気がします。

 ではなぜこんなに少人数で踏み込まねばならなかったのか?当時新選組では脱走者が続いていました。近藤勇はその書簡で病気のものが多くて少人数だったといっていますが、これは故郷への見栄だと思われます。事件当日新選組に残っていたのはわずかに40人、もちろん屯所の警備にも人数を割かなくてはなりませんから、出動したのはさらに少なくなって、34人しかいなかったんです。

 敵はどこにいるか分かりませんから、この少ない人数をさらに分けます。よく山崎烝が池田屋にいて近藤等を引き入れたという話が描かれますが、実際は古高俊太郎が捕縛されたことの対策として開かれた会議ですから、古高の供述を元に潜むというのは不可能なようです。近藤隊は9人、土方隊は23人で、さらにこれを11人と12人に分けているようです(近藤周平はこっちにいたという話も……)。

 さて偶然、あるいは途中で通報があり、近藤隊は池田屋に突入することになります。このとき、近藤勇は玄関と裏に人数を割いているため、突入する人数はさらに少なく、わずか4人(あるいは5人?)になってしまいます。それにしても池田屋には相当数の志士達がいたのに、これだけで斬り込んでいくというのは、しかも局長自らというのはなかなかすごいことだと思います。

 さて、斬りこんでしばらくして最初に斬りこんだ沖田総司が持病のため、藤堂平助は額に大怪我をして、それぞれ屯所に戻ります。もちろん外には隊士がいますが、中にいる人数はさらに少なくなるわけです。すぐに別部隊として出発した新選組隊士たちが応援に駆けつけますが。これで新選組のほうが圧倒的に有利になり、無事に(?)浪士達を捕縛することになります。

 

「新選組」と「新撰組」どちらが正しい?

 一番よく聞かれることかもしれません。パソコンの変換だと普通「新撰組」しかでてきませんよね。結論から言うと、どちらも間違いとはいえませんが「新選組」のほうが良いようです。

 どちらも間違いとはいえないというのは、新選組関連の史料を見ると、どちらの字も使われているからです。私が見た限りではどちらかというと「新撰組」となっているものの方が多い気がします。これは当時の人たちが細かい漢字の違いを気にしなかったからのようです。例えば永倉新八は自分の名前を書く際、「永倉」と「長倉」の両方の字を使っていますし、沖田総司は手紙の署名に総二と書いてみたりしています。ただ、このように名前の漢字が混用されていたおかげで読み方が分かる(たとえば「総司」=「総二」=「ソウジ」とか)こともあるので、昔の人のおおらかさは結構ありがたいことかもしれません。

 ではなぜ「新選組」のほうが良いのか。ここで、漢字の意味を辞書で見てみると、「選」には多くの中からえりぬく、「撰」はものとか詩をえらぶという意味があることが分かります。そのことから「新選組」のほうが意味としては正しいだろうということが分かります。当時命名は「見廻組」のように、意味そのまんま(笑)にされています。そこで新選組だけ、変わった命名をすることはありえないだろうというのもあるようです。

 新選組の隊名は、八月十八日の政変の際、褒美として武家伝奏が与えたものであると、隊士であった島田魁の日記にはあります。島田魁日記を載せている『新選組日記(PHP出版)』からその部分を抜き出すと、「同八月十八日長州人引揚ノ節、当組南門前ヲ守ル、其節転奏(伝奏のこと)ヨリ新選組の隊名ヲ下サル、…」といなっています。ここでははっきりと「新選組」の名前を貰ったとありますね。いつこの名前がついたのかも分かって一石二鳥(笑)

 そうはいっても永倉新八なんかは字を混用していますから、日記と意味だけでは少し根拠が薄いですよね。一番大きな理由は、町田市にある小島資料館にある、近藤勇からの手紙に、「新選組」の印が押してあったということです。局長である近藤が、正式な書類にも使う印に誤字を使うわけがないという理由から、「新撰組」ではなく「新選組」が正しいということのもっとも大きな根拠となっているようです。その印を復元したものを押してもらったのが、こちらに置いてあります。ちょっと私には読めないですが(汗)

 というわけで、「新選組」と「新撰組」どちらかというと「新選組」を書いておいたほうが良いようです。きっと大河ドラマが「新選組!」なのもこのような理由があるからなのでしょう。

 

文責:望海

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