和泉橋の医学所

 書き出す前に和泉橋の医学所について少し話をしたいと思います。この和泉橋の医学所は、神田お玉ヶ池にあった種痘所が安政6年、移転したことによりできました。このときはまだ私設の種痘所だったのですが、万延元年、幕府の直轄、つまりは官製(あるいは国立の)種痘所となっています。その後、文久元年に西洋医学所、文久3年に医学所と改称されています。今の東京大学医学部の前身です。つまり、ここは日本初の官立の西洋医学学校ということになります。にもかかわらず、記念碑も立っていません。『胡蝶の夢』に、位置もよく分からないし記念碑も立っていないことがばかばかしくなって、せっかく行ったのにそのまま見ずに帰ってきてしまったという司馬遼太郎先生の話が載っていましたが、その状況は今も変わらないようです。せめて記念碑くらい建ってくれると嬉しいのですが……。

 さて、気を取り直して。和泉橋の医学所というくらいなので、医学所跡に行く前に和泉橋にも行ってみることにしました。JRの秋葉原駅からだと、昭和通口を出て、2〜3分のところに和泉橋はあります。地下鉄日比谷線の出口からだとすぐ横になります。住所は東京都千代田区神田佐久間町1丁目辺りになるようですが、なにぶん川の上なので詳しい住所はわかりません(笑)。橋は神田川の上にかかっています。川が濁って見えるのは仕方ないですね。橋が変わっても名前が残っているというのはなんだか嬉しい気がします。

 医学所跡へは、ここから歩いて10分ほどかかります。住所は東京都台東区台東1−30。この南側一帯が医学所だったそうです。近くに大きな津藩藤堂屋敷があったそうですが、今となってはその跡さえはっきりしません。この藤堂藩邸は、戊辰戦争の際接収され、新政府軍の病院が置かれました。医学所跡は、大通り沿いなのですが、住所以外に目印となるようなものはないので、少し見つけにくいです。一番右が大通りの写真なので、よろしければ行く際の参考にどうぞ。一歩裏に入ると表との違いに驚きます。今医学所跡にあるのは、何かの会社なのでしょうか?

 さて、この医学所跡と新選組との関係についてです。鳥羽伏見の戦いの後、戦いで負傷した新選組隊士と肩を打たれて負傷していた近藤勇、既に病状がかなり進んでいたと思われる沖田総司はその他の隊士とは別に富士山丸で横浜に戻ってきました。ここから近藤勇と沖田総司は斎藤一を含む軽傷者20数人とともに、この神田和泉橋の医学所に向かいました。ここで斎藤一が19日に治療を受けたことが記録に残っているようです。近藤勇の肩には治療を受けたとき、まだ銃弾が残っていたとも言います。

 この後この場所は新選組の最後の大分裂の場となります。永倉新八と原田左之助らの離脱です。勝沼の戦いから敗走してきた後、永倉新八達が会津へ行くことを提案すると、近藤勇が私の家来になるなら一緒に行こうと言ったといいます。近藤の真意は分かりません。この後新選組は土方歳三とともに箱館戦争まで戦いますが、江戸の試衛館に端を発した新選組という存在は、原田左之助と永倉新八がいなくなったこのとき(すでに山南・藤堂・井上は亡くなり、沖田は病気)、終わりを告げたとも言えると思います。

 さて、この医学所は、永倉新八の生まれた松前屋敷から歩いてもわずかに15〜20分程度の距離にあります。奇しくも彼らの新選組離脱の日は永倉新八の誕生日でもあるんです(永倉さんの言い残しているとおりであれば)。また、少し前に書いたように、医学所に隣接して、藤堂平助が御落胤と言っていた、その藤堂家の藩邸があります。ここで袂を分かつことになった近藤勇、土方歳三、原田左之助、そして永倉新八がここでなにを思ったかと考えると、非常に感慨深いものがあります。

 

訪問日:2004年3月28日

文責:望海

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